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第2話 暦の歴史・後編-七曜の成立とグレゴリオ暦成立、改暦の試み

七曜とその順序について

私たちは1週間の曜日を「日月火水木金土」とそらんじることができるが、この1週間の順番はどのようにして決められたのであろうか。それについて、ギリシャの歴史家カシウスが次のように説明しているという。

それによると、古代人は7つの惑星が時間と空間を支配する順序は地球から遠い順になると考えた。その順とは、土星、木星、火星、太陽、金星、木星、月であった。

週の第1日を支配するのは地球から最も遠い土星であり、しかもその土星は第1日の第1時をも司るものとされた。すると、地球から最も近い月が第7時、元に戻って土星が第8時を支配することになる(表2-1)。

表2-1 支配星と時刻の関係
土星木星火星太陽金星水星
1234567
891011121314
15161718192021
22232425
図2-1 支配星と曜日の関係

このように支配星に時間を割り当てていくと、木星が第23時、火星が第24時となる。よって、翌日の第1時は火星の次の太陽が司ることになり、第2日は太陽の日と見なされた。第1時を支配する惑星がその1日を支配すると考えられていたのである。

同様に割り当てを続けると、第2日の第24時は水星となり、第3日の第1時は月が支配する。以下、第4日の第1時は火星、第5日の第1時は水星、第6日の第1時は木星、第7日の第1時は金星がそれぞれを司るという、惑星と曜日の関係ができあがる(図2-1)。

こうして第1日から第7日までが、土星の日、太陽の日、月の日、火星の日、水星の日、木星の日、金星の日という、現代まで続く1週間の順序が決まったと言われる。

曜日名の源流

ヨーロッパの「日曜日」には、2通りの流れがある。1つは太陽の日とするグループと、もう1つはキリスト教から来た主の日とするグループである。太陽の日とするのは、キリスト教が興る前からローマではラテン語でDies solis(デイエス・ソリス)と呼んでいた。また英語のSunday、ドイツ語のSonntagという具合にゲルマン系の国々にも見られる。一方、主の日とするのは、フランス語のdimanche(ディモンシュ)、イタリア語のdomenica(ドメニカ)というように、カトリックのキリスト教国に見られる。また、ロシアやポーランド、ギリシャなどの正教会の流れを汲む国々ではキリストの蘇った日と言う意味で、復活の日と呼ばれている。

さて、英語の各曜日についてはゲルマン神話に由来するものが多い。月曜はMoon(月)、火曜はTiw(ティウ)またはTyr(チュール)やTir(ティル)とも呼ばれるゲルマンの戦神、水曜はWoden(ウォーデン)あるいはOdin(オーディン)として知られる北欧神話の主神、木曜はThor(トール)というゲルマン神話の雷神、金曜はFrigg(フリッグ)あるいはFrija(フリーヤ)と呼ばれるゲルマン神話の豊穣の神、土曜はSaturn(サトゥルヌス)という古代イタリアの穀物の神にちなんでつけられたという。

ところで、今日の私たちは習慣として日曜日を休日として受け入れているが、これは、キリスト教を国教としたローマ皇帝コンスタンティヌス1世が、西暦321年に日曜日を主の日(安息日)と定めたことに由来する。

キリストは金曜日に十字架にかけられ、3日目に復活した。アウグストゥスの改暦で述べたように、これはローマ流の3日目であり、復活した日が日曜日に当たったために、その日が主の日となった。

復活祭について

復活祭とは、十字架にかけられて死んだキリストが3日目に復活したことを記念する日であり、キリスト教徒にとって最も重要な祭典の一つである。この復活祭の日取りをいつ行うかが、コンスタンティヌス帝がキリスト教を国教と定めた時代にはキリスト教団内で統一されていなかった。そこで、コンスタンティヌスは325年に各地の司祭を招集し、史上初の公会議となるニカイア公会議を開催した。

復活祭の礼拝日については、キリストの復活がユダヤの過越(すぎこし)の祭に起きたとされている。この過越の祭の日は、太陰暦であるユダヤ暦によって日付が決まるのだが、過越の祭および復活祭は太陽暦の上をあちこちに移動し、年々変わることになる。ところが当時は月の満ち欠けを太陽年に正確に同期させるのに必要な、精密な天文学系の技術がなかった。ニカイア公会議の結論としては、復活祭は春分の日の後の最初の満月の次の日曜日に行うものと取り決められた。

この復活祭の決定方法、春分の日が真に正しい日付であるかどうか、というのがグレゴリオ暦への改暦の契機となった。ユリウス暦は365.25日(1年を365日とし、4年に1度閏年を設ける)と定めているため、一太陽年(365.24219879日)とわずかに異なる。1年で約11分、130年ほどで1日のずれが生じてしまうのである。このユリウス暦の内包する欠陥と、それに起因する復活祭を正しい日付に祝うことができないという事実によって、後世にグレゴリオ暦に改暦されることとなるのである。

紀元について

暦の年月日は、春分や新月を基点として決められるが、時の流れを捉えるために問題となるのが紀元である。紀元は、建国や独立といった国家的行事や、宗教的な祝祭を記念して作られた例が多いという。

カルデア人は、バビロニアの建設者ナボナッサルが即位した西暦前747年から年を数え始めたという。これをナボナッサル紀元という。ローマは、ロムロスが建国した前753年をローマ紀元元年として、年を計る基点とした。

2世紀の天文学者プトレマイオスは、ナボナッサル紀元を用いて、当時のローマ皇帝アントニヌス・ピウスまでの暦法を作ったが、この紀年は後にローマでも使われるようになったという。

ところが、3世紀にローマ皇帝ディオクレティアヌスが即位すると、専制君主制を敷くようになる。いわゆる最後の大迫害を行ったとされる人物だが、彼はそれまで使われていた紀年法を廃止して、自分の即位した西暦284年をディオクレティアヌス紀元元年と定めた。

その後、キリスト教はローマの国教として隆盛を極める。紀年法は弾圧者の一面を持つディオクレティアヌスの定めたものを相変わらず用いていたが、これに疑念を抱いた人物がいた。

その人物とは、ローマの僧院長エクシグウス・ディオニシウスである。彼はキリスト教を弾圧したディオクレティアヌスの紀元を“悪魔の定めた紀元”であると断じ、キリストの生誕をもって紀元とするのを最良であると考えた。その結果、ディオクレティアヌス紀元248年をキリスト紀元532年として、復活祭の日取りをきめる暦を作った。

このキリスト紀元(西暦紀元)A.D.(Anno Domini)は教会で徐々に用いられるようになった。(ただし、ディオクレティアヌス紀元は殉教者紀元とも呼ばれ、こちらを好むキリスト教徒もいたという。)遅くとも10世紀にはヨーロッパに広く普及したという。さらに、キリスト紀元の反対側にある紀元前B.C.(Before Christ、ビフォア・クライスト)は、一説によると、1627年にフランスの天文学者ドニ・プトが初めて用いたといわれ、18世紀の啓蒙主義時代には広く用いられていたという。

さて、ディオニシウスがキリスト生誕と考えた年はどのようにして決めたのかという疑問が湧くが、これについてはよくわからないらしい。

新約聖書には、「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。」(マタイによる福音書2章1節)とある。ところが、ヘロデ王は西暦前4年に亡くなっているため、ディオニシウスの定めた西暦元年はキリスト紀元ではなく、誤りであったと言える。

後世の様々な研究をもってしてもキリストの生誕年は確定されていないが、西暦前4年頃というのが定説となっている。

また、A.D.ではなく宗教的に中立的とされるCommon Era(共通の世紀)を用いようとする動きもある。

グレゴリオ暦の成立までの背景

紀元前46年にユリウス暦が独裁官カエサルの手によってローマに採用されてから、1582年にローマ教皇グレゴリウス13世の勅書によって今日の標準であるグレゴリオ暦を採用されるに至るまで、実に1500年ほどの歳月がかかることになった。この間に暦の日付と真の日付のずれは10日になっていた。

改暦に至るまで、なぜ時間がかかったのか。様々な理由のうち、主だったいくつかの理由を作者の独断で挙げてみる。

ユリウス暦が優秀であった

結果論になるが、古代ローマから中世末期に至るまで改暦されなかったという事実は、ユリウス暦が優秀であったということもできるだろう。1年を365.25日と定めたユリウス暦は、今日の科学的視点を持ってすれば厳密さに欠けるが、おおよその正確さを持っていた。近世ヨーロッパに至るまで、多くの人は、たとえ真の日付と10日間ずれてるユリウス暦でも生活に困らなかったという見方もできる。

戦いの連続、イスラームとの対峙

中世ヨーロッパの歴史は戦いの連続であった。そのため、文化に目を向ける余裕は少なかった。古代ローマ帝国崩壊の直接の原因は、4世紀から5世紀にかけてのゲルマン民族の大移動であり、その後もヨーロッパへの異民族の侵入は相次いだ。ヴァイキングの脅威は11世紀頃まで続いた。

相次ぐ戦乱により、都市機能は破壊された。食糧の供給体制も十分ではなく、また医学も十分に発達してなかったため生きるのびることが簡単ではなかった時代であった。

また、ムハンマド(570-632)の出現によりイスラーム教が成立するが、イスラームの出現後、ヨーロッパは常にイスラーム世界と対峙することになる。

キリスト教圏の国家は最初、防戦すらままならなかった。711年、西ゴート王国はウマイヤ朝ペルシアとの戦いに破れ滅亡した。ヨーロッパからイスラーム教国を追い出したレコンキスタの完了は1492年のことであり、それまでイベリア半島はイスラームが支配していた。また、ヨーロッパから積極的に攻勢をかける第1回十字軍が行われたのは1096年のことであった。

ただし、対立していたイスラーム世界から、ヨーロッパでは失われていたアリストテレス哲学や数学、天文学を輸入したのもまた事実である。

教育・学問的な問題

中世ヨーロッパにおいて、聖職者や王侯ですら読み書きができないという時代があった。フランク国王シャルルマーニュ(西ローマ帝国皇帝カール大帝といった方がわかりやすいか)(国王在位768-814)も、文字の読み書きはできなかった。カール大帝は自身の教養に並々ならぬ努力を注いだというが、残念ながら手習いをするにはあまりにも遅い年齢だったという。

各地に大学が興ったのはボローニャ(1088)を皮切りに、パリ(1150)、オックスフォード(1167)と1000年代以降であった。さらに、各地の聖職者が聖書を直接読むという行為も、ヨハネス・グーテンベルク(1398頃-1468)による印刷技術の発明を待たなければならなかった。

正確な暦を作成する上での天文学的な知識が不十分であったし、神学上の教義に対立する学問上の真理を唱える者は異端とされてしまう、という時代でもあった。

天文学者でありカトリック教会の司祭でもあったニコラウス・コペルニクス(1473-1543)は地動説を発見しても物議を醸すことから、死の直前まで地動説を唱える『天球の回転について』を出版することはなかった。同じく天文学者であり、熱心なカトリック教徒でもあったガリレオ・ガレレイ(1564-1642)は、地動説を唱えるも教皇庁検邪聖省の裁判により異端の烙印を押されることになる。

* * *

つまるところ、改暦に至るまでの経緯はかなり複雑な時代背景を理解しないと、正確に理解するのは難しい。カエサルとエジプトの暦さえおさえればだいたい理解できるユリウス暦成立の経緯とは異なり、ユリウス暦からグレゴリオ暦の改暦に至る経緯は、中世ヨーロッパ史の概略はもちろんのこと、キリスト教の歴史の概略もおさえておく必要があるだろう。

我が国や中国大陸のように天皇や皇帝を追いかければ歴史の流れがわかるのに対して、西ヨーロッパの権力の中枢が時代とともに変化したことも、より改暦に至る経緯を紐解くことへの難しさを増す原因でもある。ローマ教皇ははじめ有力教会の一角であるローマ司祭に過ぎなかったし、教皇の権力も時代とともに変化した。ビサンツ帝国は名目上滅亡まで東ローマ帝国でありつつけた。神聖ローマ帝国皇帝も常に権力をふるっていたというわけでもない。また、ローマのあるイタリア半島が統一されたのは、ナポレオンの登場より後、1861年のイタリア王国成立を待たなければならなかったことも付しておく。

グレコリオ暦への改暦までの経緯

前節にあげた複雑な時代背景を含めた経緯というのは無理にしても、ローマ教会周辺で起こった出来事を簡単に記す。

表2-2 グレゴリオ暦採用までの略史
西暦出来事
325年ローマ皇帝コンスタンティヌス1世、ニカイア公会議で聖職者を招集。復活祭の日付を確定。
525年ディオニュシウス・エクシグウス、時のローマ教皇ヨハネ1世に復活祭の日付の計算を依頼される。
731年カトリック司祭ベーダ・ヴェネラビリス、『イングランド教会史』を記す。暦や日付の研究を行う。
1054年ローマ教皇とコンスタンティヌーポリ総主教の相互破門。
1267年カトリック司祭のロジャー・ベーコン、時の教皇クレメンス4世にユリウス暦の誤りを上奏し、復活祭が正しい日付に行われていないと主張する。翌1268年、論文『大著作』を記す。
1344年アヴィニョン捕囚の教皇クレメンス6世、突如として改暦の必要を断じ、暦の専門家に書簡を送る。改暦の検討はされたが、4年後のペスト大流行によって改暦どころではなくなる。
1412年対立教皇ヨハネ23世、太陰暦のずれを直す勅令を公布するも、無視される。
1514年教皇レオ10世、改暦の提案をキリスト教国の主要君主に送るもこれといった反応なし。
1517年マルティン・ルター『95ヶ条の論題』。宗教改革の口火。プロテスタントの先駆け。
1534年イングランド国王ヘンリー8世、イングランド国教会の首長となり、ローマカトリック教会から独立する。
1543年天文学者ニコラウス・コペルニクス『天体の回転について』を出版。地動説の再発見。同年死去。
1545年トリエント公会議開幕。改暦についても話し合われる。
1564年天文学者ガリレオ・ガリレイ生まれる。
1571年天文学者ヨハネス・ケプラー生まれる。
1582年ローマ教皇グレゴリウス13世の勅令。グレゴリオ暦採用。

グレゴリオ暦の概略

今日用いられているグレゴリオ暦(西暦)の規則は、400年間に97回の閏年を設けることになっている。すなわち、

  1. 西暦の年数(以下、年)が4で割り切れる年は閏年とする。(原則として4年に1度、閏年を置く)
  2. ただし(1)のうち、年が100で割り切れる年は閏年としない。
  3. ただし(2)のうち、年が400で割り切れる年は閏年とする。

たとえば、西暦1900年と2100年は閏年でない平年だが、例外として西暦2000年は閏年となる。Y2K問題などと大騒ぎしたのも今は昔である。

なお、教皇グレゴリウス13世の教皇勅書のラテン語文および英訳は、Inter gravissimas - Wikipedia, the free encyclopediaより入手可能である。

実際に各国で採用に至るまで

ローマ教皇グレゴリウス13世の勅令をもって、ただちに各国が改暦をしたわけでもない。相互破門状態であった東方正教会、およびプロテスタントの国は宗教上の反発から、カトリック教会の定めたグレゴリオ暦をただちに採用したわけではなかった。

1582年に勅書通りに改暦を実施したのは、イタリア、スペイン(ポルトガルを含む)、ポーランドだけであった。同年に少し遅れてフランスが、その後数年の間にベルギー、オランダの一部、ドイツ、スイス、ハンガリーのカトリック圏が移行した。イギリスに至っては1752年に導入された。ちなみに我が国日本は1873年(明治6年)にグレゴリオ暦を採用した。東方正教会の国々が改暦をしたのは1900年代に入ってからであった。

グレゴリオ暦以降の改暦の試み

グレゴリオ暦採用後に様々な暦の提案されたが、実際に短期間ながら改暦が行われたフランス革命暦、国連で議論された世界暦について触れておく。

フランス革命暦

1789年バスティーユ監獄の襲撃により端を発するフランス革命により、1792年からフランスは第一共和政に移行した。翌年、革命政府はフランス革命暦を制定することになる。

概要としては、1年を12か月、すべての月を30日とし、余りの5日を年の終わりに置いた。また、すべての月と日に名前が付いているのも特徴である。従来の週と七曜は廃止し、1か月を10日ずつのデカード(週)とした。さらに、1日を10時間、1時間を100分、1分を100秒とすべて10進法とする斬新なものであった。なお、同時期にメートル法が提案されたことも付しておく(SI単位系については後で詳しく扱う予定である)。

1806年、フランス第一帝政下の皇帝ナポレオンによって、グレゴリオ暦に戻された。一説によると、ローマカトリックとの和解の意味合いもあったという。詳細については、フランス革命暦 - Wikipediaを参照されたい。

世界暦

世界暦の骨子は、まず1年を364日と1日(平年)または2日(閏年)の余日に分ける。次に、364日を4等分して91日ずつの四季に分ける。さらに、この91日を31日、30日、30日の3ヶ月とする。ここで、91=7×13であるから、各季節はすべて13週からなリ、いつも日曜で始まり土曜日で終わることになる。余日は、平年は12月30日のあとに置き、閏年は6月30日の後にも置く。さらに、余日は曜日のない日とする、というものである。

具体的な活動としては、1930年にエリザベス・アケリス(Elisabeth Achelis)女史によってニューヨークに世界暦協会が設立された。1931年、国際連盟の専門機関である通信交通機関で改暦問題が討議されたが、時期尚早とされた。1937年に再び取り上げられたが、改暦の見込みは無く、改暦問題に関する会議を開催することは当分の間不適当とする旨が決議された。

第二次世界大戦後に世界暦協会は活動を開始し、改暦問題は国際連合でも討議された。しかし最終的な決議は、1956年4月20日の経済社会理事会における「現在のところ改暦の必要を認めずとして、世界暦改革の審議を無期延期する」というものであったという。詳細については、世界暦 - Wikipediaも参照されたい。

グレゴリオ暦はすでに慣習となっており、フランス革命暦が結果的に失敗に終わったことからも、現時点では改暦を試みる行為自体が現実味のないものと言える。(つづく)